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Why do we need volunteers now?
Vol.2「偽善か無意味か」

今回からは、ボランティアの持つ意味について、ボランティアへの態度のパターンごとにみていきたいと思う。まずは、いきなり極端かもしれないが、ボランティアを「軽蔑している」パターンから検討していきたい。

そんなに多くあることではないけれど、テレビなどでボランティアに尽力している人たちを見て、はっきり口には出さないまでも「こいつら何でこんなことやっとんねん、アホちゃうか」みたいな表情をする人を見たことがある。「何を好き好んでそんなしんどいことを」なのか「この暇人が」なのか、彼のその時の心中は定かではないが、私には彼がボランティアをしていた人に対して軽蔑の眼差しを向けていたように見えた。 ここで仮に彼がその時、無意識的にせよ、そういう気持ちだったとしよう。であるとして、なにゆえ彼らはボランティアを軽蔑しているのかをはっきりさせたい。その理由は大きく分けて二つあるように思う。
一つは消極的な理由、つまりボランティアをする意味がないと考えていること。一口に意味がないといっても、軽蔑するということは、その人にとって意味がないだけではなく、誰にとっても意味がないと考えていることになる。言い換えれば、割に合わないということになろうか。
確かに重油流出事故の際のボランティアなどは命を落とすことさえあり、私自身も命あっての物種、「割に合わないなあ」と感じる。しかし、だからといってそれをバカにするのは筋違いであろう。水道などのライフラインを初め様々なサービスが充実した現代においては、錯覚に陥った人間によるおかしな個人主義がはびこりがちである。このような事実にも気づかず、たまたま利他的な行動する人間がいたからといって、それを軽蔑の対象とすることは自らの思慮浅薄を自白しているようなものである。

いま一つの理由は、ボランティアは偽善、場合によっては独善だとして、認めないこと。
まず偽善といってもその意味するところは一様ではないが、ここでは単純に「他から認められることを目的とした、善行とされる行為」とでもしておく。
確かに、目的が別の所にあって、その相手方との関係を無視したボランティアもある。そうした偽善がそのまま偽善で終わってしまうと、せっかくの「善行」も中身が伴わず、それこそ無意味である。またボランティアをしてもらう方にとっても、そんな「善行」はいい迷惑である。中学生の内申書目的のボランティアなどがいい例だろう。
しかし最初は不純な動機であっても、それがきっかけで自分のしていることの意味、ひいては置かれている環境の意味に気づくこともあるのではないか。自分なりのイデオロギーに沿って行動するボランティアは、自己実現の一つの態様である。そのような「偽」でない「善行」に発展することも決してまれなことではないのではないか。
そもそも、いったいどれくらいの人間が、どの程度、「偽」なのか、外部から判別することは困難である。ことによると本人ですらよく分かっていないこともあるだろう。果たしてそこまで意識して、目に入ったボランティア一般を捉えて「偽善」だと考えている人がどれほどいるのだろうか。

ここまでボランティアは偽善でも無意味でもないのではないかという形で述べてきた。そしてそれは自己実現の手段であるからと考えた。ここで注意しなければならないことは、「独善」に陥らないこと。ボランティアにあたっては当然のことながら、まずその相手方との人間関係ありき、である。自己実現にこだわるあまり、相手方の求めるものが見えなくなってしまってはまたまたそれこそ無意味である。これは本人にやる気があるだけ、単なる偽善行為よりタチが悪い。通常、無料奉仕のボランティアであるから、ある程度の自己主張は認める余地はあるにしても、それをやりすぎては本末転倒である。ボランティアにあたっては、このあたりのバランス感覚が大切ということか。

(Y・H)

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