Why do we need volunteers now?
Vol.5「ボランティアの“従”効能」
前回はボランティアの持つ「効能」を“主”と“従”に分けて、その“主”効能について述べさせていただいた。
すなわち、携わるボランティアそのものから得られるもの、例えば自己表現の機会や様々な経験を“主”、ボランティアそのものではなく、そこから付加的に得られるものを“従”、とかなり大ざっぱに分類してみた。
“従”効能とは
それでは、“従”効能とは具体的に何なのか。
一言で言えば、それは人間関係、である。人との出会いなんて、仕事や学校でもたくさんあるし、インターネットを使えば同じ趣味の人間なんていくらでも出会えるじゃないかと言われるかもしれない。確かに仕事や学校でも多くの人との出会いはあるだろうし、インターネットなどにはその手軽さにおいてとても敵わないだろう。
しかしボランティアほど多種多様な人間に、そしてお手軽に出会えるものはなかなかないのではないかと思う。つまり、する・しないの選択の自由が格段に高く、さらに職場や学校などだけではまず出会うことのない人と接点ができるのである。年齢・職業・学歴・障害の有無、いろいろな「ステータス」の人間がひしめき合う場、それがボランティアの現場である。インターネットなどの特殊な(というか当たり前になっているけれど)世界を除けば、希有な存在と言ってもいいのではあるまいか。そこまで手軽とは言いにくいけれど、ボランティアには「アナログ」ならではの良さがある。実際に見て決める、という従来なら当たり前のことが可能である。仕事や学校のような強い拘束力がない、という利点は維持したままで。
ちなみにネット上だけでのボランティアというのもある。この辺の選択肢の多様さもボランティアの持つひとつの武器と言えるだろう。
ボランティアの人間関係ならでは良さ、それはしがらみのなさである。みな境遇が違うから、自由な活動・議論をしていくことができる。もちろん活動を続けていくうちに、新しい「枠組み」ができて、また新たなしがらみができるのでは、という気もする。それは確かにその通りだと思う。しかしその「枠」を取り払うのも、ボランティアでは格段に自由なのである。
「自由」なボランティアと「責任」
ただし、自由と言っても、「無責任」では困る。はっきり言ってひじょーに困る。ボランティアでは賃金とかは基本的に発生しないので、たとえさぼったりしたとしても、直接ペナルティーがあったりすることは、まずない。だが、そのような「無責任」はタブーである。本人もせっかくの経験の機会を失うことになるし、何よりすっぽかされた方はいい迷惑である。すっぽかした本人は「すっぽかし」という「非道」(!)をやるような人間であるから、めぐりめぐってそのうち何か不幸が将来訪れるかもしれない。しかし、それをやられた方はそんなこと知ったこっちゃないのである。
ボランティアは非営利であるからこそ、個々の責任感なくして成り立たない。「自由」と「責任」は表裏一体であることだけは忘れないでいただきたい。
学校や職場・地域など、今あなたが所属しているコミュニティ、もうそれで十分、もしくはいっぱいいっぱいだという方もおられるだろう。しかし、人間最後は一人というけれど、逆に言えばその最後までは一人ではないのである。ちょっと考え方を変えて、ちょっと時間を調整して、ボランティアを通じた人間関係の「開発」をしてみるのもいいのではないか、というのが私の今回の提案である。
(Y・H)