Why do we need volunteers now?
Vol.6「表現の自由とボランティア」
これまではいわば漠然とボランティアについて考察してきたが、今回からは一つの視点を設定して、ボランティアを考えていきたい。
で、どんなところからみてみようかということなのですが。最近は自衛隊関連で憲法9条が注目を浴びており、小泉首相が「けんぽーかいせー!」と声高に言っておられるところで、個人的にも学んでいる「憲法」からボランティアを考えてみようと思う。
憲法21条1項 表現の自由
憲法といえば、国家の基本法、つまり他のどんな法律よりも「えらい」ことになっている。その「えらい」憲法の3原則といえば国民主権・平和主義・基本的人権の尊重。ではこの「基本的人権」として何が保障されているのか、何のために保障されているのか、いくつか具体的にみていこう。ということで、まず今回はみなさまにもなじみの深そうな「表現の自由」をテーマに考えてみたい。
憲法21条1項
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
これが日本国憲法における表現の自由を保障した条文である。基本的な条文であるので、多くの方が目にされたことがあることと思う。そして表現の自由には、一般に「自己実現」の価値と「自己統治」の価値をまっとうさせるという意味があるといわれる。
この両者を簡単に説明すると、「自己実現」の価値とは、個人が言論などの表現活動を通して、自己の人格を発展させるという個人的な価値のこと。そして「自己統治」の価値とは、言論活動などによって国民自らが政治的意思決定に関与する(例えば、典型的なのが選挙権)という民主政に資する社会的な価値のこと。
ここではこのうち「自己実現」を中心に考えていきたい。いうまでもなく、「自己実現」は、人間一人生きていくうちで必要不可欠なものである。そして自己実現のために表現活動が不可欠なのも当然といえるだろう。ただ一口に表現活動といっても、様々な形態がある。当然表現内容に合わせた表現手段が必要になるの。だから、前出の条文に挙がっている言論などの手段はあくまでも例示にすぎないのであって、「その他一切の表現の自由」も保障されているのである。
例えば、今回季刊ボランティアで取材にお邪魔した「京都三条ラジオカフェ」さん。こちらでは商業主義的な放送ではなく、市民自らが主体的に情報を発信するというまさに「ラジオ放送」という表現を自由に行うことを可能にした画期的なNPOである。マスコミによる情報発信という情報の一方通行状態の弊害がいわれる中、ラジオという独占的だった「公共の電波」を用いる手段で個人による情報発信が可能になったことは、単に表現の手段が一つ増えたというにとどまらず、表現の可能性を大きく広げるものといえるだろう。昨今はインターネットによる情報発信が容易になってはいるものの、電波の公共性、その辺のお店で流れているような日常性という特殊性はなおその価値を失わない。
ボランティアという「表現」
そしてボランティアも、自己を表現する手段の一つとして非常に有用であろう。ボランティアという表現には二段階の意味があると思う。すなわち、まずボランティアという形式で行う個別具体的な手段そのもの。そして有償でもできることだけれど、それをあえて金銭的に無償(もしくは相当でない対価で)で行うという手段を採ったこと。この二段階の表現がなされているのである。例えば、高齢者の介助をするのに、ヘルパーとして働くことそのものが高齢者福祉に関わろうという意思の現れであり、それを有給の職員ではなくボランティアとして働くということ自体も一つの自己表現である。
ボランティアの目的は、社会の役に立ちたいとか、自分の技術を発揮したい、時間を活用したいなど様々な理由が結び付いて、人それぞれにお持ちのことと思う。ボランティアには、ただボランティアという形式を採ることだけではなく、古切手を集めることから海外支援、ラジオ放送や出版(←季刊ボラもボランティアで作ってます!!)など、実に多岐にわたる手段が用意されている。
「えらい」憲法が保障してくれている表現の自由、大切だからわざわざ少ない条文の中に盛り込まれているといえる。みなさまもボランティアという表現を通して「自己実現」してみるのも良いのでは? そのうち「ボランティア権」が人権として議論される日が来たり・・・・・するかも。
(Y・H)